セクション1:伊邪那岐命の物語を三つの場面でつかむ

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、日本神話に登場する有名な神様の一人です。名前だけは聞いたことがあっても、「何の神様なのか」「どんなご利益があるのか」「どこの神社にお参りすればいいのか」までは、意外と知られていません。
しかも、伊邪那岐命の物語はただの昔話ではなく、「どこで線を引くか」「どう終わらせて、どうやり直すか」といった、現代の私たちにも通じるテーマがぎゅっと詰まっています。
この記事では、古事記・日本書紀の神話をもとに、伊邪那岐命の物語をていねいにたどりながら、「始まりの力」「境界線を引く知恵」「禊(みそぎ)から学べるリセットのヒント」を、日常で使える形で紹介しました。受験や転職、結婚や別れ、人間関係の整理など、人生の節目で悩んだときに、「そういえば伊邪那岐命はどうしていたっけ?」とふと思い出してもらえたらうれしいです。
1-1:天からのミッションと国生み
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、日本神話のなかで「始まり」を担当する、とても重要な神様です。『古事記』や『日本書紀』では、高天原(たかまがはら)という神々の世界で会議が開かれ、「下の世界はまだドロドロで形がないから、きちんと整えてきなさい」と命じられた二柱として、伊邪那岐命と伊邪那美命(いざなみのみこと)の名前が出てきます。
二柱は「天の浮橋」に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)という矛を海に差し入れて、ぐるぐるとかき回します。その先から落ちたしずくが固まり、最初の島「おのころ島」が生まれた、と物語られます。そこから二人は正式な夫婦となり、淡路島や本州、四国、九州など、日本列島を形づくる島々を順番に生み出していきます。これが、いわゆる「国生み」の場面です。
最初に行った儀式では、歩く方向や声をかける順番を間違えたために、うまくいかない子が生まれてしまいます。神々の指摘を受けてやり方を見直し、もう一度やり直すことで、島々をきちんと生み出せるようになります。ここには、「最初から完璧でなくていい」「失敗しても手順を整え直せばいい」というメッセージも読み取れます。
現代の感覚で言えば、伊邪那岐命は「ゼロからプロジェクトを立ち上げるリーダー」のような存在です。受験勉強を始めるとき、新しい仕事に挑戦するとき、引っ越しや独立を考えるときなど、「これから土台を作っていくぞ」というタイミングで、この国生みの話を思い出すと、自分の一歩に意味を感じやすくなります。
1-2:伊邪那美命との関係と「最初の夫婦」
伊邪那岐命は、伊邪那美命と一緒に国土だけでなく、山や川、海、風、火など、さまざまな神々を生み出しました。二人は日本神話の中で「夫婦の神」として、とても重要な位置にいます。
最初の結婚の儀式では、島のまわりを歩き、出会ったときに先に伊邪那美命が声をかけてしまったため、うまく育たない子が生まれます。そのあと、神々の助言に従って手順を変え、今度は伊邪那岐命から声をかける形で儀式を行うと、その後は島々や神々を問題なく生めるようになりました。ここで語られているのは、「男女どちらが上か」という話ではなく、「決めごとや役割をお互いに尊重することの大切さ」です。
二人は多くの神々の父母とされ、そのことから日本各地で「夫婦円満」「縁結び」「子宝」「家内安全」といった願いと結びついて信仰されてきました。たとえば滋賀県の多賀大社や兵庫県の伊弉諾神宮などでは、由緒やお守りの説明に、いのちの親神・夫婦円満・延命長寿などの言葉が並びます。
ただし、二柱の関係はずっと順風満帆だったわけではありません。火の神の出産をきっかけに伊邪那美命が命を落としてしまう悲しい場面や、黄泉の国での再会から決定的な別れに至る場面など、かなり厳しい出来事も描かれています。それでも、国土を整え、たくさんの神々をこの世に送り出したという事実は変わりません。「ずっと仲良しで完璧な夫婦」ではなく、「失敗もすれ違いも抱えながら、それでも自分の役割を果たしていく二人」として描かれているところが、かえって現実的で親近感がわきます。
1-3:黄泉の国への旅と決定的な別れ
火の神を産んだことで命を落とした伊邪那美命を、伊邪那岐命はどうしてもあきらめられず、死者の世界である黄泉(よみ)の国まで追いかけて行きます。黄泉の国で再会した伊邪那美命は、「もう黄泉の食べ物を口にしてしまったからすぐには帰れない。黄泉の神と相談する間、私の姿は見ないでほしい」と頼みます。
ところが伊邪那岐命は、その約束を守りきれず、好奇心と不安に耐えられなくなってしまいます。こっそり様子を見に行き、変わり果てて腐敗した伊邪那美命の姿を目にしてしまうのです。その瞬間、伊邪那岐命は恐怖とショックで逃げ出します。怒りと恥ずかしさにかられた伊邪那美命は、黄泉の軍勢を追いかけさせます。
追われる伊邪那岐命は、髪飾りや櫛、最後には桃の実などを投げながら必死に逃げます。ようやく現世との境目である黄泉比良坂(よもつひらさか)にたどり着き、そこで巨大な岩を置いて道をふさぎます。この岩によって、黄泉の国と現世との行き来は断たれ、「これ以上は互いの世界に踏み込まない」という線が引かれます。
この岩は、単に「死者と生者の国境」というだけでなく、伊邪那岐命の心の中に引いた線でもあります。「どれほど大切な相手でも、これ以上一緒にいると自分が壊れてしまう」というギリギリの実感から、苦しい決断をしたとも読めます。現代の私たちも、つらい関係や環境から距離をとる必要があるとき、同じような気持ちを味わうことがあります。黄泉比良坂の場面は、「無理を続けることだけが優しさではない」「ときには別れを受け入れることも、お互いのためになる」という深いテーマを含んでいると言えるでしょう。
1-4:禊と三貴子誕生までの流れ
黄泉の国から戻ってきた伊邪那岐命は、「なんと穢れたところへ行ってしまったのだろう」と言い、自分の身についた穢れ(けがれ)を落とすために禊(みそぎ)を行います。祝詞では、この場所を「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはら)」と呼びます。
現代では、宮崎県宮崎市阿波岐原町の江田神社・みそぎ池周辺を、この阿波岐原に比定する説がよく知られており、「禊発祥の地」として案内されています。ただし、研究の世界では別の地域を候補に挙げる説もあり、場所の特定については完全に一つに決まっているわけではありません。「いくつかある候補地の中で、宮崎が有力視されている」というイメージでとらえるとよいでしょう。
禊の場面では、衣を脱ぎ、水に入り、体や顔を洗うたびに新しい神々が生まれていきます。最後に顔を洗ったとき、左目からは太陽の女神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目からは月の神・月読命(つくよみのみこと)、鼻からは海や嵐をつかさどる須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれます。これら三柱は「三貴子(さんきし)」と呼ばれ、それぞれ高天原、夜、海原を任されることになります。
ここで大切なのは、黄泉の国という最悪の体験を、なかったことにするのではなく、「きちんと区切りをつける儀式」を行った結果として、新しい神々が生まれているという点です。つらい出来事に向き合い、自分なりのやり方で終わらせることで、次のステージにつながる可能性がある。禊と三貴子誕生の流れは、その象徴として読むことができます。
現代の私たちにとっての禊は、人によって違います。ゆっくり休むことかもしれませんし、環境を変えることかもしれません。医療やカウンセリングを受けること、神社でお祓いを受けることもあるでしょう。どの方法を選ぶにしても、「つらかった自分を認めたうえで、ここで一区切りしよう」と決めることが、次の一歩につながります。
1-5:現代の私たちから見た伊邪那岐命のイメージ
ここまでの物語を整理すると、伊邪那岐命は次のような顔を持つ神様だと言えます。
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形のない世界を整え、国土と多くの神々を生んだ「始まりの神」
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伊邪那美命とともに、家族やご縁の土台をつくった「夫婦・家族の神」
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黄泉比良坂で岩を置き、生と死の世界を分けた「境界線の神」
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禊によって穢れを洗い流し、三貴子を生み出した「浄化とリセットの神」
現代のことばでたとえるなら、伊邪那岐命は「人生の大きな節目を見守るコーチ」のような存在です。新しいことを始めたいとき、反対に「ここで終わりにしたい」と思うとき、つらい経験から立ち直りたいとき。そういった場面で伊邪那岐命を思い出すと、「自分はいま物語のどの場面にいるのか」「ここから何を禊として選ぶのか」を考えやすくなります。
このあと取り上げるご利益の話も、「お願いしたら全部やってもらえる」というイメージではなく、「自分の選択と行動をそっと後押ししてくれる存在」として考えたほうが、神話の流れと自然につながります。
セクション2:伊邪那岐命は何の神様か―ご利益を三つの層で整理
はじめに大切なこととして、ここで扱う「ご利益」は、あくまで信仰や伝承に基づくものであり、医学的な治療や専門的な支援の代わりになるものではありません。病気やメンタルの不調、安全に関わる問題などは、まず医療機関や専門家、相談窓口に相談することが基本です。そのうえで、「自分の心の向きや、決意を支えてもらう存在」として伊邪那岐命をイメージしてもらえるとよいと思います。
伊邪那岐命に関するご利益は、大きく次の三つの層に分けて考えると整理しやすくなります。
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神社が実際に由緒や案内で挙げているご利益
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神話の内容から読み取れる性質
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現代的な比喩としての受け止め方
この三つを意識しながら見ていきましょう。
2-1:「始まり」を応援する力(開運・スタート運)
【神話から読み取れる性質】
伊邪那岐命は、まだ固まっていない世界におりて国土を整え、島々を一つずつ生み出しました。最初の儀式に失敗しながらも、やり方を改めて再挑戦し、国生みを完成させていきます。この流れから、「ゼロから形を作る力」「失敗してもやり直せる柔軟さ」「大きな計画を小さなステップに分ける視点」といった性質が読み取れます。
【神社が案内する主なご利益】
伊邪那岐命を祀る神社では、「国生みの神」として、新しい事業や人生の節目に関する祈願を受け付けているところが多くあります。伊弉諾神宮では、家内安全や家業繁栄、事業発展などの祈祷が行われており、「物事の土台を整える力」としての信仰が見られます。
【現代的な比喩としての受け止め方】
現代風に言えば、伊邪那岐命は「スタート運」を後押ししてくれる存在、とイメージされることが多いでしょう。ただし、「この神様に祈れば必ず合格」「必ず成功」という意味ではありません。むしろ、
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受験や資格取得に向けて勉強を始める
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転職活動の準備を始める
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独立や開業のために情報を集める
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新しい土地での生活を整え始める
といったタイミングで、「最初の一歩を切り出す勇気」や「基礎をしっかり作る姿勢」を応援してくれるイメージです。お願いするときは、「~できますように」だけでなく、「まずは今月中にこれをやります」と、自分の行動もセットで宣言するのがおすすめです。
2-2:夫婦・家族・パートナーシップの守り
【神社が案内する主なご利益】
多賀大社や伊弉諾神宮、三峯神社など、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする神社では、「夫婦円満」「縁結び」「家内安全」「子孫繁栄」「延命長寿」などが代表的なご利益として挙げられています。授与されるお守りやお札にも、夫婦や家族の平和を願う文言がよく見られます。
【神話から読み取れる性質】
神話では、二柱が正式な夫婦になったあと、島々や多くの神々を生み出したことが強調されています。一方で、出産をめぐる悲劇や黄泉の国でのすれ違いなど、「うまくいかない局面」もきちんと描かれています。ここから、「喜びもケンカも別れも含めて、関係性をつくっていく」というリアルな夫婦像が見えてきます。
【現代的な比喩としての受け止め方】
そのため、伊邪那岐命・伊邪那美命に夫婦や家族のことを祈るときは、「ずっと仲良しでケンカゼロにしてください」という願いだけでなく、
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お互いの違いを少しずつ理解できるように
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言いすぎたときは素直に謝れるように
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本当に無理な関係なら、静かに距離をとる勇気を持てるように
といった現実的な願い方が似合います。自分自身も、「一日一回は感謝を言葉にする」「週に一度は家族と顔を見て話す時間をつくる」など、小さな約束を添えて祈ることで、ご利益と日々の行動が自然につながっていきます。
2-3:厄除けとメンタル回復のサポート
【神話から読み取れる性質】
伊邪那岐命は、黄泉の国という「死の世界」に足を踏み入れたあと、自分の身についた穢れを落とすために禊を行いました。さらに、黄泉の軍勢に追われたときには桃の実を投げつけて危機を逃れたという描写もあります。ここから、「穢れを洗い流す力」「災いを遠ざける力」「つらい経験から立ち直る力」というイメージが生まれました。
【神社が案内する主なご利益】
伊邪那岐命を祀る神社では、厄除けや災難除けのお祓いがよく行われています。江田神社のような禊ゆかりの社や、熊野速玉大社のような「死と再生」の信仰と結びついた社でも、悪い流れを断ち切って新しいスタートを助ける存在として語られています。
【現代的な比喩としての受け止め方】
現代風に言えば、伊邪那岐命は「人生のリセットを助ける存在」としてイメージしやすい神様です。ただし、くり返しになりますが、病気や心の不調があるときに、医療や専門家を利用しなくてよい、という意味では決してありません。
神様にお願いできるのは、例えば
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休む決断をする勇気
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自分を責めすぎない気持ち
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環境を変える一歩
など、心の方向を少し変えるところです。「厄除け」を、「悪いことを全部なくす魔法」ではなく、「生活や心の状態を整え直すきっかけ」としてとらえると、伊邪那岐命の禊の物語ときれいにつながっていきます。
2-4:人間関係の線引きと悪縁を手放す力
【神話から読み取れる性質】
黄泉比良坂で伊邪那岐命が置いた岩は、黄泉の国と現世を分ける大きな境界線でした。どれほど大切な相手でも、これ以上関わると自分が壊れてしまう、と判断して線を引いたとも言えます。ここから、「必要な境界線を引く力」「距離をとる勇気」というイメージが生まれます。
【神社が案内する主なご利益】
多くの伊邪那岐命ゆかりの神社では、公式に「悪縁切り」という言葉を前面に出しているわけではありませんが、広い意味での人間関係をふくめて、「厄除け」「家庭や地域の安泰」といった祈願が行われています。
【現代的な比喩としての受け止め方】
現代では、「必要なご縁だけが残り、しんどすぎるご縁は静かに離れていくように」と伊邪那岐命に祈る人もいます。ただし、「相手を不幸にしてください」「相手の人生を壊してください」といった方向で願うのはおすすめできませんし、神話の雰囲気とも合いません。
お願いの言葉としては、
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「お互いにとって無理のない距離感に落ち着きますように」
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「本当に大切にすべき人を見極められるようにしてください」
といった形が、心の健康にもつながります。そのうえで、自分自身も連絡の頻度を調整したり、第三者に相談したり、必要であれば専門の相談窓口を利用したりする現実的な行動が欠かせません。伊邪那岐命は、「境界線を引く決断は自己中心ではなく、自分と相手を守る知恵にもなりうる」と教えてくれる神様だと考えられます。
2-5:人生の転機にお願いしたい場面を整理する表
ここまでの内容を整理するために、伊邪那岐命にお願いしやすい場面を表にまとめます。これは、神社が実際に掲げるご利益、神話から読み取れる性質、現代的な比喩を合わせたイメージです。
| 場面 | 主なテーマ | 神話の場面 | 性質の分類 |
|---|---|---|---|
| 受験・転職・開業など新しい一歩 | スタート運・基礎づくり | 国生みで島々を生み出す流れ | 神話由来+神社由緒 |
| 結婚・出産・家族の転機 | 夫婦・家族・家内安全 | 夫婦として神々を生む場面 | 神話由来+神社由緒 |
| 別れ・離婚・退職などの区切り | 境界線を引く勇気 | 黄泉比良坂で岩を置く場面 | 神話由来の象徴 |
| 長引く不調やモヤモヤ | 厄除け・リセット・心の整理 | 黄泉の国から帰って禊をする場面 | 神話由来+信仰 |
| 人間関係を整理したいとき | 良縁と悪縁のバランス調整 | 生と死の世界を分ける決断 | 現代的な比喩(距離調整・悪縁を手放す) |
自分の今の状況がどの行に近いかを考えてみるだけでも、「どんな言葉でお願いしようか」「自分は何を変えてみようか」が少し整理されます。
セクション3:神話を暮らしに落とす「伊邪那岐流・境界線の引き方」
3-1:「ここから先は無理」を決める勇気(黄泉比良坂の岩)
黄泉比良坂で伊邪那岐命が置いた岩は、物語の中でも特に印象的なアイテムです。もしあの岩がなければ、黄泉の国からの追っ手はいつまでも現世に流れ込んでしまったかもしれません。つまり、「境界をはっきりさせることで、ようやく危険から逃れられた」と読むことができます。
私たちの日常にも、「ここから先は自分の心や体がもたない」というラインがあります。ところが真面目な人ほど、「もう少し我慢すれば大丈夫」「期待に応えなければ」と考えてしまい、気づいたときには限界を超えていることがあります。
そこで役に立つのが、「自分なりの黄泉比良坂ルール」を決める考え方です。たとえば、
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残業は週に何時間まで、と数字で上限を決める
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休日には基本的に仕事用のメールやチャットを開かない
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夜は何時以降は新しい依頼には答えない
といった基準を、自分と周りの人に前もって伝えておきます。これは相手を突き放すためではなく、「長く健康に働き、生きていくための安全策」です。
もちろん、急なトラブルなどで例外が必要なときもあります。その場合は、「これは本当に例外として必要な対応か」「惰性でルールを破っていないか」を後から振り返ってみるとよいでしょう。心の中で黄泉比良坂と岩を思い浮かべ、「これは自分を守るための岩だ」と意識することで、罪悪感が少し軽くなるかもしれません。
3-2:情報との距離をとる――見なくていいものは見ない
黄泉の国で、伊邪那美命は「私の姿を見ないで」と言いましたが、伊邪那岐命はその約束を守れず、見てはいけないものを見てしまいました。その結果、強いショックと恐怖を味わい、大混乱の中で逃げ出すことになります。この場面は、「知りすぎないほうがいいこともある」という教訓として読むこともできます。
現代では、スマホ一台あれば世界中のニュースや人の本音に触れられます。便利な一方で、炎上、悪口、ショッキングな事件など、心が疲れる情報もあふれています。「見なければよかった」と後悔した経験がある人も多いでしょう。
伊邪那岐命の行動は、人間の「どうしても知りたくなってしまう気持ち」をそのまま表しています。そのうえで、「すべてを知ろうとすると、自分が壊れてしまうこともある」と教えてくれているように感じられます。
情報との距離をとるための工夫として、
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SNSの通知を切り、自分で決めた時間だけ見る
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寝る前一時間はニュースアプリや動画サイトを開かない
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見ると明らかに気分が落ち込む話題やアカウントは、ミュートやブロックで視界から外す
といった方法があります。「知らないと損」という気持ちが湧いてきたら、「これは今の自分には重すぎる情報かもしれない」と一度立ち止まってみてください。心の黄泉比良坂を守ることは、情報が多すぎる時代だからこそ、大切になっています。
3-3:仕事や学校で全部を背負わないためのヒント
国生みや神々誕生の流れを見ると、伊邪那岐命は最初こそ多くを自分で担っていますが、三貴子が生まれたあとは、それぞれに役割を任せています。天照大御神には高天原、月読命には夜、須佐之男命には海原というように、「世界の担当」を分けたのです。
これを現代に当てはめると、「何でも自分一人で抱え込まない」というメッセージが見えてきます。仕事や学校で、「自分がやらないと回らない」「人に頼むのは申し訳ない」と考えすぎると、すぐに限界が来てしまいます。本来は、得意な人に任せる部分と、自分が中心になる部分を分けたほうが、全体としてうまく回ります。
具体的な工夫としては、
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自分の担当範囲を書き出し、「ここまでが自分」「ここから先は相談」と境界を決める
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どこまでなら責任を持てるかを、上司や先生と確認しておく
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わからないことは早めに質問し、手に負えないと感じたら正直に相談する
などがあります。
伊邪那岐命の物語からは、「役割を手放すことも、立派な責任ある選択」という視点も読み取れます。仕事や役目を後輩や他の部署に引き継ぐとき、「自分が逃げているのでは」と感じてしまうかもしれませんが、それが全体のバランスを良くするなら、むしろ前向きな決断です。「ここは月読さんに任せる」「ここは須佐之男さんの出番だ」とイメージしてみると、少し気持ちが楽になるかもしれません。
3-4:家族・友人・恋人との距離感を整える
伊邪那岐命と伊邪那美命は、最初は一緒に国を生み、多くの神々を育てたパートナーでしたが、黄泉の国での出来事をきっかけに、最後は別々の世界を歩むことになりました。二人の物語は、「一緒にいることだけが正解」「離れることは悪」という考えに、静かに疑問を投げかけているようにも見えます。
家族や友人、恋人との関係でも、「いつも連絡を取り合っていないと不安」「何でも共有しないといけない」と思いすぎると、お互いに苦しくなってしまうことがあります。逆に、一切連絡を取らないと、今度は関係が途切れてしまいます。
ここで大切なのは、「物理的な距離」と「心の距離」は必ずしも同じではない、と理解することです。遠くに住んでいても、年に数回の連絡で十分つながりを感じる人もいれば、毎日顔を合わせても心の距離が近くないこともあります。
実践的なヒントとしては、
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お互いにとって無理のない連絡の頻度を話し合って決める
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相手の一人の時間を尊重し、自分の時間も確保する
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「全部話さないといけない」と思い込みすぎず、「話したいときに話す」ペースを認め合う
といったことが挙げられます。伊邪那岐命と伊邪那美命の物語は、「一緒にいる/離れる」のどちらかだけでなく、「それぞれの場所で役割を果たす」という形もありうる、と教えてくれているようです。自分たちにとってのちょうどいい距離を探るとき、この物語を思い出してみるとヒントが見つかるかもしれません。
3-5:自分を守るための「言い換えフレーズ」を用意する
境界線を引こうとするとき、一番困るのが「どう断るか」という言葉選びです。ストレートに「嫌です」「無理です」と言うのは正直で良い一方で、相手との関係性によっては、かなり勇気がいります。その結果、断りきれずに限界を超えてしまう人も少なくありません。
そこで役に立つのが、あらかじめ少し柔らかい「言い換えフレーズ」を用意しておく方法です。たとえば、
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「今の自分の体力だと、ここまでが精一杯です」
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「一度家に持ち帰って、明日お返事でもいいですか」
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「その話題は、今の自分にはちょっと重いので、別の話をしませんか」
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「とても大切なことだと思うので、専門の人にも相談してみましょう」
といった言葉です。内容としては境界線を引いていますが、表現を少しやわらかくすることで、相手も自分も追い込みすぎずにすみます。
黄泉比良坂に岩を置いた伊邪那岐命も、「あなたが嫌いだから来ないで」というより、「これ以上一緒にいると、互いにとって良くない」という判断のもとで線を引いたとも読めます。境界線は相手を攻撃するためのものではなく、「自分と相手を守るための線」にもなり得ます。
紙やスマホのメモに、自分にとって言いやすい言い換えフレーズをいくつか書いておき、困ったときに見返すだけでも、「どう断ればいいか分からない」という不安が少し軽くなります。それもまた、一つの「心の黄泉比良坂」を整える行動と言えるでしょう。
セクション4:禊をヒントにした「リセット習慣」アイデア
4-1:物の禊―持ち物を通して気持ちを軽くする
伊邪那岐命の禊では、衣服や持ち物を脱ぎ捨てたり洗ったりするたびに、新しい神々が生まれたとされています。これは、「身につけているものを手放すことで、新しい変化が生まれる」という象徴的な描き方だと考えられます。
私たちの生活でも、部屋や机の上に物があふれてくると、視界も頭の中もごちゃごちゃしてきます。そこで役に立つのが、「物の禊」としての片づけ時間です。
やり方は、とてもシンプルでかまいません。
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一度に全部やろうとせず、「今日は机の上」「今日はカバンの中」など、範囲を小さく決める。
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一つひとつ手に取って、「今の自分の生活を助けてくれているか」で考える。
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手放すと決めた物には、「今までありがとう」と心の中で言ってから処分する。
「高かったから」「いつか使うかも」という理由だけで残している物が多いと、いつまでもスペースが空きません。伊邪那岐命も、黄泉の国で背負ってきた穢れを、そのまま抱え続けることはせず、水に流す選択をしました。新しい神々が生まれたのは、いらないものを勇気をもってそぎ落とした結果とも言えます。
物が減ると、掃除が楽になり、探し物が減り、生活の動きもスムーズになります。「たくさん持っていること」ではなく、「必要なものがすぐ手に取れること」のほうが、日常の安心につながっていきます。
4-2:デジタル禊―スマホとSNSのリセット
今の私たちにとって特に効果が大きい禊が、「スマホの中の片づけ」です。写真、アプリ、SNS、メモなど、気づけばアイコンや通知があふれ、画面を見るだけで疲れてしまうこともあります。
デジタル禊の具体的なアイデアとしては、
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ここ数か月使っていないアプリを思い切って削除する
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通知が多すぎるアプリの通知をオフにする
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見ると必ず気分が落ち込んだりイライラしたりするアカウントをミュートする
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同じような写真やスクリーンショットを整理し、本当に残したいものだけ残す
などがあります。
これも、いきなり全てを完璧にしようとすると苦しくなります。「今日はホーム画面だけ」「週末に写真フォルダを少し整理する」など、小さく分けて進めれば大丈夫です。
インターネットの世界には、黄泉の国のように重たい情報や怒りが渦巻いている場所もあります。そうした場所から、自分にとって安全な距離をとることは、現代版の禊だと言えます。スマホの画面を開いたとき、「ほっとするか」「緊張するか」を目安にしながら、自分に合ったデジタル禊を続けてみてください。
4-3:感情の禊―ノートと呼吸でモヤモヤを流す
黄泉の国での出来事は、伊邪那岐命にとって相当大きなショックだったはずです。大切な人の変わり果てた姿を見てしまい、追われ、命からがら逃げ帰ったのです。それをなかったことにしようとするのではなく、禊という儀式を通して「終わり」を自分なりに受け止めたからこそ、三貴子の誕生や新しい世界の始まりにつながっていきました。
私たちの心の中にも、怒り、悲しみ、不安、後悔など、さまざまな感情がたまります。それを全部押し込んでしまうと、どこかで一気にあふれてしまうことがあります。そこでおすすめなのが、「感情の禊」としての簡単なノートワークです。
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できるだけ静かな場所で、ノートやメモアプリを開く。
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今のモヤモヤや不安、イライラを、「誰にも見せない前提の文章」として、そのまま書き出す。きれいな言葉でなくてかまわない。
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書き終わったらノートを閉じ、ゆっくり深呼吸を三回する。
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最後に、「ここまでよくがんばった」と自分にひとことかける。
書いた内容は、後で読み返してもいいですし、「もう大丈夫」と感じたときに破って捨ててもかまいません。重要なのは、「こんな気持ちを抱えている自分もいる」と一度認めてあげることです。それが感情を外に流す最初の一歩になります。
伊邪那岐命の禊も、自分の穢れを認め、それを水で洗い流す行為でした。感情の禊も同じように、「確かにそんな気持ちがある」と認めるところから始まります。
4-4:一日の終わりのミニ禊ルーティン
毎日生活していると、小さな失敗やショック、ちょっとしたイライラが少しずつたまっていきます。それを全部抱えたまま眠るよりも、「一日の最後に小さな禊をする」つもりで区切りをつけると、次の日が楽になります。
簡単なミニ禊の例として、
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お風呂やシャワーのとき、頭からお湯をかぶりながら「今日の疲れが流れていきますように」と心の中でつぶやく
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体をタオルでふくとき、「今日もここまでよく生きた」と自分をねぎらう
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寝る前に、今日あった「うれしかったこと」「助かったこと」を三つだけ思い出し、紙に書く
などがあります。どれも数分でできることですが、「今日のことは今日で終わり」という感覚をつくる手助けになります。
伊邪那岐命の禊は一度きりの大きな出来事ですが、私たちは小さな禊を毎日積み重ねることができます。「毎日必ずやらなきゃ」と力を入れすぎると続きません。「できる日はやってみる」「疲れている日は休む」くらいの気持ちで、長く付き合っていくのがおすすめです。
4-5:神社に行けないときの「おうち遥拝ワーク」
伊邪那岐命ゆかりの神社としてよく知られているのは、兵庫県淡路市の伊弉諾神宮、滋賀県の多賀大社、和歌山県新宮市の熊野速玉大社、宮崎県の江田神社などです。ただ、住んでいる地域や体調、仕事や学校の事情によっては、なかなか簡単には行けないという人も多いと思います。
そんなときに試したいのが、自宅でできる「遥拝(ようはい)」です。これは、昔から行われてきた、「離れた場所から神社の方角に向かって拝む」スタイルです。
やり方はとてもシンプルです。
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机の上や棚などに、小さなスペースを一か所決める。
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可能であれば、伊邪那岐命ゆかりの神社の写真や絵はがきを置く(なければ白い紙でもよい)。
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その前に静かに座り、軽く目を閉じて、ゆっくりと深呼吸を数回行う。
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心の中で、簡単な自己紹介と感謝、今のテーマや願いを短く伝える。
大切なのは、スペースの豪華さではなく、「いまだけは神様に意識を向ける」という時間をつくることです。地図アプリなどで伊弉諾神宮や多賀大社、熊野速玉大社、江田神社の方向を調べ、その方角を向いて一礼するのも一つの方法です。
淡路島や熊野、宮崎などでは、国生みや禊、熊野詣でをテーマにしたモデルコースやツアーが観光協会や旅行会社から出されています。そうした旅にいつか出たいと思いつつ、今はおうち遥拝で「心の準備」をしておくのも、伊邪那岐命とのご縁を深める一歩になります。
セクション5:伊邪那岐命とともに意識したい神々とゆかりの地
5-1:伊邪那美命―終わりを受け入れる力をくれる存在
伊邪那美命は、伊邪那岐命のパートナーとして国生み・神生みを担った女の神様です。火の神を産んだことで命を落とし、黄泉の国へ行ってしまったあとも、黄泉の世界の支配的な存在として物語に登場します。
新しい命や世界を生み出す一方で、何かが終わり、失われていく。伊邪那美命は、その両方の側面を背負っている存在だと言えます。現代の生活でも、仕事をやめる、長く続けてきた習い事を手放す、関係に区切りをつけるなど、「終わり」を決めるのはとても勇気がいることです。それでも、終わりを決めなければ次の始まりがやってこない場面も多いですよね。
伊邪那美命を意識するときは、「終わらせようとしている自分」を責めるのではなく、「新しい形に向かうための通過点」としてとらえてみてください。「ここまでよく続けてきた」「ここからは別の形を選ぶ」と自分に声をかけるとき、伊邪那美命に、「この終わりを静かに見守ってください」と心の中でお願いしてみるのも一つの方法です。そのうえで、そこからの立て直しや再出発については、伊邪那岐命に「次の一歩を支えてください」と頼む、というイメージで二柱と付き合っていくと、物語全体と自然につながります。
5-2:天照大御神―自分の中の「光」を意識する
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、伊邪那岐命の左目を洗ったときに生まれた太陽の女神で、高天原の中心的な存在です。
有名なのが、天岩戸(あまのいわと)の話です。弟の須佐之男命の乱暴なふるまいに深く傷ついた天照大御神は、岩戸に隠れてしまい、世界は暗闇に包まれます。神々が相談し、にぎやかな踊りや祭りを行うことで、天照大御神は少しずつ外の様子に興味を持ち、岩戸から出てきます。そうして世界に再び光が戻りました。
この話は、「誰にでも引きこもりたくなる時期はある」「でも、きっかけや周りの支えがあれば、また少しずつ外に出られる」というメッセージとして受け取ることもできます。伊邪那岐命の禊から天照大御神が生まれたことを思い出すと、「心を整えることは、自分の中の光を取り戻す準備なのだ」とも考えられます。
日常の中で、自分の中の光を意識するためにできることは、難しいものばかりではありません。
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自分の得意なことや、人から褒められた経験をノートに書き留める
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誰かの役に立てた小さな出来事を思い出してみる
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「今日はこの場面だけがんばる」と決めて、あいさつや笑顔を意識してみる
など、ほんの少しの行動でも、気持ちが変わってきます。伊邪那岐命には、「自分の光をうまく活かせるように見守ってください」とお願いしつつ、天照大御神には「一歩踏み出す勇気」を支えてもらうイメージを持つと、二柱の力をバランスよく借りられます。
5-3:月読命と須佐之男命―休む力と動き出す力
月読命(つくよみのみこと)は伊邪那岐命の右目から、須佐之男命(すさのおのみこと)は鼻から生まれたと伝えられます。月読命は月と夜を司る神、須佐之男命は海や嵐を象徴する神として知られています。
月読命は、静けさやリズム、休息をイメージさせます。本来、夜は体と心を休ませる時間ですが、現代では夜遅くまでスマホを見たり、仕事をしていたりする人が多くなっています。月読命を意識するときは、
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寝る前一時間はスマホやパソコンを見ない
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夜に一度、窓から空を見上げて、深呼吸をする
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週に一日は「早く寝る日」を決める
など、「休む力」を取り戻す工夫が浮かびやすくなります。
一方の須佐之男命は、感情表現が激しく、最初は問題児のように描かれますが、その後ヤマタノオロチを退治して人々を救うなど、勇気ある行動を見せる神でもあります。強い感情が、うまく使えば大きな行動力になることを象徴しているとも考えられます。
伊邪那岐命の禊からこの二柱が生まれたことを思い出すと、「心を整えることで、休む力(月読)と動き出す力(須佐之男)のバランスが良くなる」と感じられます。今日は計画や振り返りをする「月読の日」、明日は思い切って行動する「須佐之男の日」と、日ごとにテーマを変えてみるのも、生活のリズムを整える一つの方法です。
5-4:伊邪那岐命ゆかりの神社と「淡海」と「淡路」の話
伊邪那岐命を主祭神とする代表的な神社の一つが、兵庫県淡路市にある伊弉諾神宮です。ここは、『日本書紀』に「幽宮(かくりのみや)を淡路の洲に構えて隠れ住んだ」と記されていることなどをもとに、伊邪那岐命が晩年を過ごした場所と伝えられています。社伝や観光案内では、日本書紀・古事記に起源が明記される神社の中でも最古級の社として紹介され、「日本最古の神社」と表現されることもあります。ただし、これはあくまで社伝や地域側の表現であり、学問の世界では「日本最古の神社がどこか」を一つに決めているわけではありません。「古い由緒を持つ神社の一つ」として理解するのがちょうどよいでしょう。
境内には、伊邪那岐命と伊邪那美命が宿るとされる「夫婦大楠」があり、夫婦円満・良縁・安産子授などを願う参拝者が多く訪れます。家内安全や交通安全、厄除けの祈祷も行われており、「国生みの神」「夫婦の神」としての性格がよく表れています。
もう一つよく名前が挙がるのが、滋賀県の多賀大社です。『古事記』の現存最古の写本とされる真福寺本には、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記されており、この一文を根拠に、多賀大社は伊邪那岐命・伊邪那美命の「いのちの親神」として信仰を集めてきました。一方で、他の多くの写本や『日本書紀』には「淡路の多賀」と記されており、「淡海」は「淡路」の誤写ではないかとする説も有力です。
さらに、現在の多賀大社で見られるようなイザナギ・イザナミ信仰がはっきり前面に出てきたのは、中世以降と考える研究者もいます。つまり、古事記真福寺本の「淡海の多賀」の記事を大切にしながら、後の時代に祭祀の形が整えられ、発展してきた可能性があるということです。信仰の世界では「淡海の多賀」も「淡路の洲」もともに伊邪那岐命ゆかりの地として尊ばれており、学問の世界ではどちらが元々の形に近いのか、今も議論が続いています。
和歌山県新宮市の熊野速玉大社では、主祭神の熊野速玉大神が伊邪那岐神と、熊野夫須美大神が伊邪那美神と、社伝や熊野信仰の流れの中で同一視されています。熊野三山全体は、古くから「死と再生」の旅路を象徴する信仰の中心として発展してきました。黄泉の国からの帰還と禊を経験した伊邪那岐命と、熊野での「よみがえり」の信仰が重ね合わされているのです。
淡路島や多賀、熊野、宮崎などには、国生みや禊、熊野詣でをテーマにしたモデルコースや参拝ツアーもあり、「神話ゆかりの地を巡る旅」として楽しむ人も増えています。こうした旅は、観光としてもおもしろいですが、自分自身の「始まり」や「リセット」を考える時間にもなります。
5-5:「伊邪那岐チーム目標シート」で暮らしに生かす
最後に、ここまでに登場した神々を「自分の人生を支えてくれるチーム」としてイメージしてみましょう。ノートに次のような表を書き、各欄に自分のテーマを書き込んでいくと、神話と日常がつながっていきます。
| 担当する神様 | キーワード | 自分のテーマ例 |
|---|---|---|
| 伊邪那岐命 | 始まり・境界線・禊 | 新しい勉強のスタート/働き方・生活リズムの見直し |
| 伊邪那美命 | 終わり・別れ | そろそろ手放したい習慣/区切りをつけたい関係 |
| 天照大御神 | 光・リーダーシップ | 自分の強み探し/誰かを励ます具体的な行動 |
| 月読命 | 休息・リズム | 睡眠の改善/夜のスマホ時間を減らす工夫 |
| 須佐之男命 | 行動力・突破力 | 先延ばしにしている一歩/勇気を出したい場面 |
たとえば、「伊邪那岐命」の欄には「今月中に部屋の物を三十個手放す」「半年以内に転職の準備を始める」など具体的な行動を書き、「天照大御神」の欄には「一日一回、自分からあいさつする」「週に一度は誰かをねぎらう言葉をかける」といった小さな行動を書き込んでいきます。
こうして神々を、遠くの完璧な存在として仰ぎ見るだけでなく、「自分の中にある性質」と重ね合わせてイメージすると、神話が一気に自分ごとのストーリーになってきます。伊邪那岐命は、その中心で「始まり」と「終わりの整理」を見守る存在として、静かに支えてくれるはずです。
まとめ:伊邪那岐命は「始まり」と「終わりの整理」を助ける人生コーチのような神様
伊邪那岐命は、国土と多くの神々を生んだ「創造の神」であると同時に、黄泉の国での体験と禊を通して、「終わりを受け入れ、区切りをつけ、もう一度歩き出す」プロセスを体現した神様でもあります。
ご利益という面では、
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新しいことを始める勇気や基礎づくり
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夫婦や家族、パートナーシップの守り
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厄除けや心のリセット
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人間関係の線引きや、しんどすぎる縁を静かに手放すサポート
といった、人生の節目に関わるテーマと相性が良いと考えられます。ただし、それらは「古事記・日本書紀などの神話」「神社の由緒や社伝」「現代の人々の解釈」が重なり合って生まれてきたものです。どこまでが伝承で、どこからが私たち自身の願いなのかを意識しておくと、信仰との付き合い方がより健全になります。
伊邪那岐命に祈るときは、「こうしてください」というお願いだけでなく、「そのために自分は何をするか」を一緒に伝えてみてください。国生みや禊の物語に登場するのは、「自ら動き、失敗しながらも世界を整えていく神様」の姿です。だからこそ、「全部お任せします」ではなく、「自分も動くので、どうか見守ってください」という祈り方が似合うのだと思います。
人生には、どうしても終わりを受け入れなければならない場面や、全力で逃げるべき場所があります。伊邪那岐命の物語は、それらが決して「負け」や「逃げ」ではなく、「次の始まりのために必要なステップ」となりうることを教えてくれます。新しい一歩を踏み出したいとき、あるいは一度立ち止まってリセットしたいとき。伊邪那岐命の名前を心の中でそっと呼び、自分にとっての黄泉比良坂と禊を、一緒に探してみてください。


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