1. まず結論から:阿弥陀如来は「どんな仏様」かを迷子にしない

「阿弥陀如来って何の仏様?」「ご利益は?」と聞かれて、言葉に詰まった経験はありませんか。阿弥陀如来は有名なのに、経典・念仏・宗派・法事・仏像の見方まで全部つながっているので、どこから説明していいか迷いやすい仏さまです。この記事では、阿弥陀如来を“弔いの現場でも困らない順番”で整理しました。名前の意味(無量光・無量寿)から入り、ご利益を誇張せずに受け取り、南無阿弥陀仏の意味を自分の言葉に直し、仏壇や法事の場での基本を押さえ、最後に名所と仏像で確かめます。読み終えたとき、「阿弥陀如来は何の仏様か」を自分の言葉で短く言える状態を目指します。
阿弥陀=無量光・無量寿を“名前”から押さえる
阿弥陀如来を理解する一番の近道は、先に「名前の意味」を固めることです。阿弥陀仏は、サンスクリットのAmitābha(無量光)とAmitāyus(無量寿)の音写に由来し、西方浄土の教主で、衆生を救うために四十八の誓いを立てた仏と辞書で説明されています。つまり阿弥陀は「光」と「いのち(尽きない寿)」のイメージで語られてきました。ここで大事なのは、光を“まぶしい光線”としてだけ受け取らないことです。仏教の光は、迷いの中で見失いがちな方向を照らす比喩として語られることが多いからです。寿も同じで、単に長生きの願掛けの話に縮めすぎると、阿弥陀の本来のスケールを取りこぼします。名前の時点で「無量(はかりしれない)」が入っているので、阿弥陀は“人間の都合で小さく切って使う仏”ではなく、“不安や死に向き合うときの軸になる仏”として理解したほうが、あとで経典や念仏の話がすっきりつながります。まずはこの一行、「阿弥陀=無量の光と無量のいのち」。ここを土台にします。
「何の仏様?」に3つの言い方で答える
「阿弥陀如来って何の仏様?」と聞かれたら、長い説明より、まずは言い方を3つ持っておくと便利です。
1つ目は辞書に沿って「西方浄土の教主(中心の仏)」です。
2つ目は実務寄りに「念仏(南無阿弥陀仏)と結びついて信仰されてきた仏」です。
3つ目は生活の場面に合わせて「亡くなった人や、自分の死が怖いときに“救いの約束”を思い出させてくれる仏」です。
この3つは別の説明ではなく、同じ芯の言い換えです。西方浄土の教主という立場があり、念仏による往生が説かれ、だから弔いの場でも強く意識されてきました。ここで注意したいのは、「弔い専用の仏」と決めつけないことです。辞書でも浄土宗・浄土真宗で本尊とされると明記されており、“日常から切れていない中心”として扱われてきたことが分かります。まずはこの3つの言い方を持てば、相手がどのレベルの答えを求めていても、話が崩れにくくなります。
浄土と極楽の違い:言葉の範囲を間違えない
阿弥陀如来の話で「浄土」と「極楽」がごちゃつくと、説明が急に曖昧になります。ここは“言葉の範囲”を整えるだけで理解が安定します。辞書では、阿弥陀仏は「西方浄土」の教主とされます。つまり浄土は「清らかな国土(仏の世界)」を指す大きめの言葉で、その代表例として阿弥陀の極楽浄土が強く意識されてきました。だから日常では「極楽浄土」とセットで言われますが、理解としては「浄土(概念の枠)」「極楽(阿弥陀の浄土を指す代表的呼び名)」くらいの整理がちょうど良いです。ここを間違えると、浄土=天国という単純化や、極楽=楽しい場所という薄い理解に寄りやすくなります。阿弥陀は“遊びに行く場所”を売り込む仏ではなく、迷いの私たちを救う誓いと結びついて語られる仏です。だからこそ、言葉の枠を先に整えておくと、のちほど「ご利益」や「念仏」の説明も誇張にならず、かつ芯が残ります。
阿弥陀三尊(観音・勢至)を配置で理解する
お寺で阿弥陀如来像を見ると、左右に菩薩が立つことがあります。これは阿弥陀三尊と呼ばれ、中央に阿弥陀、左右に観音・勢至が脇侍として配置される形式です(辞書にも来迎の場面で観音・勢至を従える説明が出てきます)。ここでのコツは、難しい役割を丸暗記しないことです。まずは「中央に救いの中心(阿弥陀)がいて、左右に支える存在がいる」という“関係の形”で覚えると安定します。阿弥陀三尊は、救いが孤立した力ではなく、関係として表される形式です。特に来迎の図像や信仰では、この三尊がセットで語られることが多く、弔いの場面(迎え)とつながって理解されてきました。三尊を見るときは、中央の顔だけで終わらず、左右の立ち姿にも目を向ける。たったそれだけで、「阿弥陀が何の仏様か」が“像の配置”として体に入ってきます。
よくある誤解を先にほどく(他力本願・現世利益・唱える回数)
阿弥陀如来の説明でこじれやすい誤解を、先にほどいておきます。
第一に「他力本願=人任せ」。これは誤用だと、西本願寺(浄土真宗本願寺派)の解説がはっきり指摘しています。 他力とは他人の力ではなく、如来の本願力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきだ、という説明です。
第二に「阿弥陀は現世利益がない」。中心が往生であるのは事実に沿いますが、だからといって“いまの心の支え”がゼロになるわけではありません。浄土真宗東本願寺派(本山 東本願寺)の説明でも、阿弥陀は限りない命・光として無限にはたらく仏で、私たちを見守る仏だと述べられています。
第三に「念仏は回数が多いほど効く」。回数を否定する必要はありませんが、回数を条件のように扱うと“取引”になってしまい、阿弥陀の本旨からずれやすいです。辞書が示すのは、阿弥陀が誓いを立て、念仏による往生を説くという大枠です。まず誤解の芽を摘んでおけば、次の「ご利益」の章が誇張にも否定にも傾きません。
2. ご利益の受け取り方:現世と往生を混ぜず、薄めず、誇張しない
ご利益を「叶う・叶わない」だけで終わらせない
「阿弥陀如来 ご利益」と検索すると、願いが叶うかどうかが中心の文章が多くなりがちです。でも阿弥陀の話は、そこだけで終えると一番大切な部分が抜けます。辞書では、阿弥陀仏は四十八の誓いを立て、西方浄土の教主で、念仏による極楽往生を説くと整理されています。つまりご利益の核は、人生の最終局面(死)を含むところまで見通した「救いの約束」です。だから本来の受け取り方は、単発の願望達成より、「怖さ・後悔・孤独に押しつぶされそうなときに、立ち戻る軸がある」ことに寄ります。もちろん現世の悩みから入っても構いません。ただ、その悩みを“すぐ解決する魔法”として阿弥陀を扱うと、うまくいかなかったときに信仰そのものを雑に扱うことになりやすい。ご利益を「当たる外れる」ではなく、「受け止め方が変わる」「支えの軸ができる」「弔いの言葉が持てる」といった方向で捉えると、誇張せずに阿弥陀の強さが見えてきます。これは精神論でごまかす話ではなく、阿弥陀が“往生の教え”として体系化されてきた事実に沿った読み方です。
中心は往生:でも“いまの不安”と切り離さない
阿弥陀如来の中心は往生です。これは辞書の整理でも明確です。ただし、往生を「死んだ後の話だけ」に閉じ込めると、現実の弔いの場面で使いにくくなります。たとえば、葬儀や法事では、残された人が「どう受け止めたらいいか」に困っています。そのとき阿弥陀の教えは、亡き人の行き先の話であると同時に、残された人の心の向け先を整える話にもなります。浄土真宗東本願寺派の説明が、阿弥陀を「限りない命、限りない光」として語り、私たちを見守る仏だと述べるのは、まさに“現在形の支え”としての面があるからです。ここを押さえると、「中心=往生」を守りながら、「いまの不安」にも言葉が届きます。中心を変えずに、適用範囲を広げる。これが阿弥陀のご利益を誇張せずに語るコツです。
「他力本願」は人任せではない(誤用を正す)
他力本願は、現代では「人任せ」の意味で使われがちです。しかし西本願寺(浄土真宗本願寺派)の解説は、その使い方を「たいへんな誤解」と明言し、他力とは他人の力ではなく、仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきだと説明しています。この一点を正すだけで、阿弥陀のご利益の受け取り方が大きく変わります。人任せの他力なら、努力も反省も不要になってしまいます。でも本来の他力は、「自分の出来・成績を救いの条件にしない」という話に近い。努力を否定するのではなく、努力の成否で人間の価値を決めない。だから、うまくいかない自分や、取り返せない後悔を抱えた人にも道が開かれる。弔いの場面で阿弥陀が強く意識されてきた理由も、ここにあります。良い人だけが救われるなら、葬儀で阿弥陀の名が響く必然性は弱くなる。でも現実には、誰もが割り切れないものを抱えて死に向き合う。だから他力本願は、現場で使える言葉として残ってきたのだ、と理解すると腑に落ちます。
宗派の言い方の違いは“対立”ではなく“表現の違い”として扱う
阿弥陀如来を中心に据える宗派は複数あります。たとえば浄土宗は、阿弥陀仏を本尊とし、よりどころのお経として浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を挙げています。一方、浄土真宗東本願寺派(本山 東本願寺)の説明は、阿弥陀を「限りない命・光」として語り、名号(南無阿弥陀仏)や本願、念仏などを連続した教えとして示しています。
ここで気をつけたいのは、「どっちが正しいか」に持ち込まないことです。家庭内でも親戚内でも宗派が混在することは珍しくありません。だから使い方としては、宗派の違いを“争点”にしないで、「この場ではこの寺(この家)の作法に合わせる」「教えの核は辞書的な整理(阿弥陀=無量光・無量寿、西方浄土の教主、念仏と往生)を軸にする」で十分です。こうすると、実務(葬儀・法事)で揉めにくく、学びとしても誠実です。
してはいけない言い切り(医療・災害・運命の断定)を避ける
ご利益の記事で危ないのは、「必ず治る」「必ず当たる」「必ず守られる」といった言い切りです。阿弥陀信仰の中心は往生であり、念仏による極楽往生が説かれるという整理が基本です。ここから外れて、医療や災害を断定的に語ると、事実としても倫理としても危うくなります。病気の場面では医療が土台であり、信仰はそれを否定する道具ではありません。災害や事故に関しても、結果を宗教で断定するのは避けるべきです。阿弥陀のご利益は、現実の対策や判断を捨てさせる方向ではなく、「怖さや後悔に飲まれそうなとき、戻る軸になる」という方向で語ったほうが、宗教としても生活としても壊れません。これは“逃げ”ではなく、阿弥陀が誓いと念仏と往生の文脈で語られてきた事実に沿った、もっとも安全で強い語り方です。
3. 南無阿弥陀仏がわかる:唱え方より先に「意味」を固定する
「南無」はお願いではなく“帰依”の言葉
念仏を理解するとき、最初に固定したいのは「南無」です。南無は、サンスクリットnamasの音写で、敬礼・帰命(帰依)の意を表す語だと辞書で説明されています。つまり南無は「〇〇してください」という取引の言葉というより、「あなたを尊び、身を寄せます」という方向の言葉です。ここを押さえると、南無阿弥陀仏を唱える行為が、願いを押し付ける行為ではなく、自分の向きを整える行為として理解できます。もちろん、祈りの中でお願いごとが出てくるのは自然です。でも南無の意味を外さなければ、お願いが“条件交渉”になりにくい。阿弥陀の教えは、誓い(本願)と名号(南無阿弥陀仏)と念仏が一続きとして語られます。だからまず「南無=帰依」の一本を心の中に置きます。これだけで、念仏の理解がぐっと安定します。
「南無阿弥陀仏」を中学生でも分かる日本語に言い換える
意味を自分の言葉に直せると、念仏は“音”から“言葉”になります。おすすめの言い換えは2つです。
1つ目:「阿弥陀さまを尊び、たよりにします」。南無が帰依の語である、という辞書の説明に沿った言い方です。
2つ目:「迷いの中でも、阿弥陀の光といのちのはたらきに向き直します」。阿弥陀が無量光・無量寿に由来するという整理と、阿弥陀が無限にはたらく仏だという説明に寄せた言い方です。
言い換えは一つに決めなくても構いません。大事なのは、言い換えが「お願いの条件」ではなく「向き直り」になっていることです。言い換えを持つと、葬儀や法事で念仏が聞こえてきたとき、意味が分からず置いていかれる感じが減ります。分からない音ではなく、意味のある言葉として耳に入ってくるからです。念仏が“場の作法”から一歩進んで、“自分の理解”になります。
家で唱えるとき:回数よりも崩れない型
家で念仏を唱えるとき、回数を決める人もいます。でも最初は回数より「崩れない型」を作るほうが続きます。たとえば、次の4つだけで十分です。
(1) 立つか座るかを決める(毎回同じでよい)
(2) 合掌する
(3) ゆっくり「南無阿弥陀仏」を数回
(4) 最後に一礼
ここで肝心なのは、南無が帰依の言葉だと分かった状態で唱えることです。回数が多くても、意味が抜けて“作業”になると、念仏の芯が弱くなります。逆に回数が少なくても、意味が保たれていれば、念仏は成立します。阿弥陀は四十八の誓いを立て、念仏による極楽往生を説く仏として整理されています。だからこそ、唱える側が自分の成績(回数)で救いを買うようにならないことが大切です。続けるための一番のコツは、立派さを目指さないこと。短くても、意味が外れなければ十分です。
法事・葬儀で困らない:唱える/唱えないの判断基準
弔いの場では、唱えるべきか唱えないべきかで迷うことがあります。結論は「その場の流れに合わせる」が最も安全です。浄土宗・浄土真宗など、阿弥陀を本尊とする宗派でも、勤行や作法は寺院・地域で違いがあります。迷ったら、次の基準で十分です。
・僧侶がリードして唱和が始まったら、小声で合わせる(無理なら口を動かす程度でもよい)
・唱和がないなら、合掌と一礼を丁寧にする
・分からないことを場の中心で確認しない(後で家族に静かに聞く)
唱える・唱えないで失礼が決まるというより、場への配慮が最優先です。念仏の意味を一つ持っていれば、声に出せない場面でも、心の中で「帰依」の向きを保てます。 それが弔いの現場で一番実用的な“困らない知識”です。
Q&A:願いごとは言っていい?宗派が違う場では?
Q:願いごとを言っていい?
A:言って構いません。ただし南無は帰依の言葉なので、願いを条件交渉にしないほうが軸が折れません。「助けてください」の前に「ありがとうございます」を置くと、取引になりにくいです。
Q:宗派が違う場に出たらどうする?
A:その家・その寺の流れに合わせるのが基本です。浄土宗は三部経をよりどころとすることを公式に示しています。 浄土真宗東本願寺派の説明は、名号・本願・念仏などを連続して示します。ただ、参列者の立場で“違いを判定”する必要はありません。合わせられる範囲で合わせれば十分です。
Q:他力本願って結局なに?
A:人任せではなく、如来の本願力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきだと西本願寺の解説が明示しています。 ここだけは、誤用をそのままにしないほうが良いです。
4. 家での向き合い方:仏壇・位牌・お墓参りで阿弥陀が“生きた知識”になる
「本尊」って何?阿弥陀が本尊になる理由
本尊とは、その寺や家庭で中心に拝まれる仏・菩薩のことです。阿弥陀は浄土宗・浄土真宗で本尊とされ、念仏による極楽往生を説くと辞書に整理されています。だから浄土門系の家庭では、仏壇の中心に阿弥陀が置かれることがあります。ただ、現実には宗派が分からない家庭も多いです。その場合は「何を拝むか」より先に、「どう向き合うか」を整えるほうがトラブルが少ないです。たとえば、仏壇の中心を“お願いの窓口”にしないこと。手を合わせるときに、まず亡き人への思い(感謝・後悔・さみしさ)を正直に置き、そのうえで念仏や読経の場に身を寄せる。これだけで、仏壇は“生活の中の静かな場所”になります。宗派を確定したいなら、無理に推測せず、菩提寺や葬儀社の資料、過去帳などで確認するのが安全です。
仏壇の前で何をすればいい?最短の基本セット
仏壇の前で何をすればいいか分からない人に向けて、最短の基本セットをまとめます。ここでは宗派差を越えて、失礼になりにくい形だけに絞ります。
(1) 立ち止まって一呼吸
(2) 合掌
(3) 亡き人に一言(声に出さなくてもよい)
(4) 「南無阿弥陀仏」を数回(家庭の流儀があるならそれに合わせる)
(5) 一礼
南無は帰依の言葉だと辞書にあるので、唱えるなら意味を外さないことが大切です。 阿弥陀が本尊とされる文脈(念仏と往生)を踏まえると、仏壇で念仏を唱える行為は、単なる儀式ではなく“向き直り”の実践になります。逆に、家族が嫌がる場で無理に唱えないほうが、家庭の平和としては正しいこともあります。大事なのは、仏壇を争いの道具にしないことです。
位牌と阿弥陀如来を混同しない(役割を分ける)
位牌は“亡き人の名前(法名)を記すもの”で、阿弥陀如来そのものではありません。ここを混同すると、「位牌=神様=お願いを聞く存在」のようなズレが起こります。阿弥陀は、誓いを立て、浄土の教主として、念仏による往生を説く仏として整理されています。一方で位牌は、亡き人を思い出し、供養の場を整えるための“目印”です。役割を分けると、気持ちの置き場がはっきりします。位牌に向けるのは、亡き人への思い。阿弥陀に向けるのは、救いの約束への向き直り(帰依)。この2つを分けるだけで、仏壇の前での言葉が落ち着きます。法事での読経や念仏も、「亡き人に何かをさせる」ためではなく、「残された私たちが、どう受け止めて生きるか」を整える時間として受け取りやすくなります。
数珠・線香・お花:やりすぎず、欠けすぎない整え方
道具は大切ですが、道具が中心になるとしんどくなります。数珠は、法事や葬儀で持っていると安心です。ただし値段で信心が決まるわけではありません。線香やお花も同じで、豪華さより“続けられる形”が大切です。仏壇の整え方で迷うなら、次の順番が無難です。
優先1:火の安全(線香の扱い)
優先2:清潔(埃をためない)
優先3:花や水を切らさない範囲で
この程度で十分です。阿弥陀信仰は、念仏と往生の文脈で整理されるので、道具に“効力”を求めすぎないほうが本筋に沿います。道具は心を整える助けであって、結果を保証する装置ではありません。やりすぎず、欠けすぎない。そのバランスが長続きします。
家族で宗派が違うときの折り合いの付け方
家族や親戚で宗派が違うと、仏壇や法事の作法で揉めがちです。ここで一番強い解決は、「その家の菩提寺に合わせる」です。理由は単純で、弔いは“家の文化”として続いてきたものだからです。浄土宗・浄土真宗など阿弥陀を本尊とする宗派でも、公式に示す教えの表現はそれぞれあり、参列者が場の中心で判定するのは現実的ではありません。折り合いの付け方としては、
・法事の場はその寺の作法に従う
・個人の信仰は家の外(自室や心の中)で守る
・「正しさ」より「続く形」を優先する
この3つが実務として強いです。阿弥陀の教えは、誓いと念仏を軸にして、迷いの中の人を救うという方向で語られてきました。だからこそ、家庭内の争いを増やす使い方は避けたほうが、阿弥陀の趣旨にも合います。
5. 仏像と名所で確かめる:阿弥陀の“約束”が形になった場所の見方
印相(定印・来迎印)は「場面」のヒント
阿弥陀如来像を見るとき、最初の観察ポイントの一つが印相(手の形)です。ただし印相を“当て物”にすると、見方が浅くなります。印相は「この仏がいま何をしている場面として表されているか」のヒントです。文化遺産オンラインの阿弥陀如来像(絵画)の解説では、両手で親指と人差し指を合わせる来迎印、足元の蓮華、雲に乗り、極楽から目の前に現れた姿、と具体的に説明されています。つまり来迎印は“迎えの場面”と結びついて語られます。一方で、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像は、1053年に納められたことが公式に示され、堂内の中心として安置される像です。印相を見ながら、「迎えの場面なのか」「中心に鎮座する場面なのか」を想像すると、像が“教えの図解”として立ち上がります。難しい専門用語がなくても、場面として読めば十分に深い見方になります。
来迎図は何を描いている?作品解説の範囲で理解する
来迎図や来迎の話は、現代だと怖い話や不思議話に寄りがちです。でも文化財としての来迎図は、まず「作品が何を描いているか」を解説の範囲で押さえるのが誠実です。文化遺産オンラインの解説は、来迎印、蓮華、雲、極楽から現れた阿弥陀という図像を述べ、鎌倉時代に法然の浄土教団で盛んに制作された形式を示す、と説明しています。ここから言えるのは、「当時の人々が、阿弥陀の救いをこう表現した」という事実です。現代の私たちが、それを“必ずこの通り起きる映像”として断定する必要はありません。断定しないから弱くなるのではなく、資料として丁寧に読むほど、信仰の厚みが見えてきます。来迎図は、死に向き合う怖さを前に、救いを“目に見える形”にした表現です。その背景を理解すると、弔いの場で阿弥陀が大切にされてきた理由が、感情としてもつながってきます。
平等院鳳凰堂:1053年と定朝像が示す“浄土を空間にする発想”
阿弥陀信仰が「言葉」だけでなく「空間」にまで展開した代表が平等院鳳凰堂です。平等院公式の年表では、1053年(天喜元年)に阿弥陀如来坐像を安置した阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立したことが明記されています。ここが重要なのは、鳳凰堂が単なる建物ではなく、「阿弥陀の浄土をこの世で体験可能な形にする」発想を示している点です。像は像として尊い。けれど鳳凰堂は、像と建築と周囲の景観が一体になって、阿弥陀信仰を支える“場”になります。実際、平等院の鳳凰堂内部には雲中供養菩薩像が並び、阿弥陀を囲む構成が説明されています(制作年として1053年が示される部分もあります)。こうした要素を合わせて見ると、「阿弥陀のご利益=往生」という中心が、単なる言葉ではなく、空間の設計としても表現されてきたことが分かります。
鎌倉大仏(高徳院):1252年開始と露坐までの歴史を押さえる
鎌倉大仏として有名な高徳院は、本尊が国宝銅造阿弥陀如来坐像であり、その造立開始が1252年(建長四)であることを公式サイトが示しています。ここでの見方のコツは、「大きいからすごい」で終わらないことです。造立が勧進(寄付を募ること)と結びついて進んだこと、堂が災害で失われ露坐になっていった歴史など、像が社会の時間を背負っている点が見どころになります。阿弥陀は辞書的にも、念仏と往生の文脈で語られる仏です。その阿弥陀が、災害や時代の変化をくぐり抜けて残り続けたという事実は、阿弥陀信仰が“頭の中だけの教え”ではなく、共同体の祈りとして生きてきたことを示します。現地では、顔→手→全身→周囲の空間の順で観察すると、印象が一段深くなります。
中尊寺金色堂:1124年上棟と「他に例のない仏像構成」を読む
中尊寺金色堂は、阿弥陀信仰が工芸・建築・仏像配置として極まった例の一つです。中尊寺公式は、金色堂が1124年(天治元年)に上棟されたこと、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした願いによって工芸技術が集約された御堂であることを説明しています。さらに須弥壇の中心に阿弥陀如来、その両脇に観音勢至、六体の地蔵菩薩、持国天・増長天を従えるという「他に例のない仏像構成」であることも明記されています。この構成は、阿弥陀三尊という基本形を核にしつつ、守護や救済の広がりを堂内にまとめて表すような配置です。見るときは、中央だけで満足せず、左右・前列・装飾へと視線を動かすと、「浄土を具体化する」という意図が伝わってきます。阿弥陀のご利益を“個人の願掛け”に縮めたくない人ほど、金色堂は強い学びになります。
まとめ
阿弥陀如来は、無量光(Amitābha)・無量寿(Amitāyus)に由来する名を持ち、西方浄土の教主として、四十八の誓いを立て、念仏による極楽往生を説く仏として辞書的に整理できます。ご利益の中心は往生ですが、だからこそ弔いの場で「言葉が尽きる瞬間」に寄り添う軸になってきました。念仏「南無阿弥陀仏」は、南無が帰依の言葉であることを押さえると、願いの取引ではなく“向き直り”として理解できます。 また「他力本願」は人任せではなく、如来の本願力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきだと西本願寺の解説が明確に示しています。そして平等院鳳凰堂(1053年)、鎌倉大仏(1252年開始)、中尊寺金色堂(1124年上棟)などの名所は、阿弥陀の教えが“空間と像”として表現されてきた確かな手がかりです。


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